AIがプログラムコードを生成する。そんな未来が現実のものとなりました。この技術革新は、開発現場に大きな変化をもたらしています。
経験豊富なエンジニアがAIを「優秀な相棒」として活用し、これまで以上のパフォーマンスを発揮する一方で、経験の浅いエンジニアや初学者は、AIが生成した品質の低いコードを十分に吟味できないまま量産してしまう、という新たな課題が生まれています。
このような、エンジニア間のスキル格差は以前から存在していました。しかし、AIの登場によって、その格差がますます拡大していくでしょう。
なぜ、このような現象が起きるのでしょうか。それは、AIが提示するコードの「良し悪し」を判断し、適切に取捨選択し、そして最終的な責任を負う能力が、エンジニア自身に求められるからです。
さらに言えば、AIが生成するコードには確率的な「揺らぎ」が伴います。つまり、同じ指示を与えても、必ずしも同じコードが生成されるわけではないのです。この不確実性は、コードの品質を安定させることを難しくし、エンジニアによる的確な評価と修正を一層重要にします。
AIはコードを書くことはできますが、そのコードが使われる文脈、将来の保守性、パフォーマンスへの影響、潜在的なセキュリティ上の脆弱性、あるいはチームで定められたコード規約といった、多角的な視点までを深く理解しているわけではありません。経験豊富なエンジニアは、長年の経験から培われた知識という「判断軸」を、いわば直感的に発動させることができます。これにより、AIの特性を理解し、その揺らぎすらも利用してパフォーマンスを向上させられる一方、その軸を持たない初心者にはそれができず、AIに振り回されてしまうのです。
この深刻な課題を解決し、すべてのエンジニアがAIの恩恵を受けられるようにするには、エンジニアの育成方法を根本から見直す必要があります。本記事では、これからの時代に求められる5つの育成戦略を提案します。
1.土台となるモダンIT環境への適応
AI駆動開発は、決して単独で成り立つものではありません。その効果を最大限に引き出すには、アジャイル開発、DevOps、クラウド・ネイティブといった「モダンIT」の実践が不可欠な土台となります。
- アジャイル開発: AIは驚異的なスピードでコードを生成します。このスピードを活かすには、短いサイクルで計画、実装、テスト、学習を繰り返すアジャイル開発のアプローチが最適です。仕様変更やフィードバックに迅速に対応できる体制があって初めて、AIによる開発の高速化が真価を発揮します。
- DevOps: AIによってコードの生成量が増えれば、その分ビルド、テスト、デプロイの頻度も高まります。このプロセスが手動のままでは、すぐにボトルネックとなるでしょう。CI/CDパイプラインに代表されるDevOpsの文化と実践は、AIが生成したコードを迅速かつ確実に本番環境に届けるための生命線です。
- クラウド・ネイティブ: AI開発ツールやモデルそのものがクラウド上で提供されることが多く、またAIで開発するアプリケーションも、スケーラビリティや柔軟性に富むクラウド環境を前提とすることが一般的です。コンテナ技術やマイクロサービスといったクラウド・ネイティブなアーキテクチャを理解し、活用できることが、AIの能力をフルに引き出す鍵となります。
これらのモダンITの実践がなければ、AIは単に「コードを速く書くだけのツール」に留まり、ビジネス価値の向上には繋がりません。AI駆動開発を導入する前に、まず自分たちの開発プロセスや文化そのものを見直すことが、全ての出発点となります。
2.知的力仕事からの解放、そして「テクノロジーを前提としたビジネス構想力」へ
AIの進化は、エンジニアの役割を根底から変えていきます。これまで多くの時間を費やしてきた「コードを書く」という、いわば「知的力仕事」はAIに代替されていくでしょう。その結果、エンジニアにはよりビジネスの上流工程への貢献、すなわち「どうすれば売上や利益を上げられるのか」「どうすれば顧客や従業員の満足度を高められるのか」といった問いに、テクノロジーの視点から答える能力が、これまで以上に強く求められるようになります。
しかし、それはエンジニアが一般的なビジネスパーソンと同じ役割を担うという意味ではありません。もしそうなら、エンジニアであることの専門性は失われてしまいます。エンジニアの真の存在意義は、ビジネス上の課題を「テクノロジー」という視点から捉え、その実現可能性と最適解を具体的に構想できることにあります。この「テクノロジーを前提としたビジネス構想力」が、AI時代のエンジニアの中核的な価値となるのです。そして、この構想力の源泉が、次にお話しする「原理原則」に他なりません。
3.AI駆動開発時代にこそ輝く、「原理原則」という土台
AIによるコード生成が現実のものとなり、「もはやコンピュータサイエンスやソフトウェア工学のような基礎知識は不要になるのではないか」という声も聞かれるようになりました。しかし、私はその逆だと考えています。AI駆動開発が主流になるからこそ、エンジニアにとってコンピュータサイエンスやソフトウェア工学の「原理原則」は、これまで以上に重要かつ不可欠な土台になるのです。
例えば、「新しいECサイトで、ユーザー一人ひとりに最適化された体験を提供したい」というビジネス要求があったとします。一般的なビジネス視点であれば、品揃えやキャンペーン施策に目が行くかもしれません。しかし、原理原則を理解したエンジニアは、その要求を次のように技術的な問いに翻訳し、構想を巡らせます。
- 「数百万人のユーザーの行動ログをリアルタイムに分析し、瞬時に推薦商品を計算するには、どのような分散処理アーキテクチャとアルゴリズムが最適か?」
- 「急激なアクセス増にも耐えうるスケーラビリティを確保しつつ、サーバーコストを最適化するには、どのようなインフラ設計が必要か?」
- 「将来の機能追加にも柔軟に対応できる、保守性の高いソフトウェア設計(設計パターン)とは何か?」
AIが個々の部品となるコードを生成できたとしても、これら全体を貫く設計思想を描き、トレードオフを判断し、最適な技術選択を行うことはできません。ビジネスの要求と、テクノロジーで実現できることの本質を深く結びつける能力。それこそが、これからのエンジニアに求められる価値であり、その思考の根幹をコンピュータサイエンスとソフトウェア工学が支えているのです。
短期的な利益に繋がりにくい原理原則の学習が、なぜ長期的に決定的な差を生むのか。その理由は3つあります。
- AIの生成物を見極める「目利き」になる
AIが生成したコードを鵜呑みにするのは危険です。それが本当に効率的か、セキュリティ上の脆弱性はないか、将来の変更に耐えうる構造か。これらを判断し、時にはAIに対してより的確な指示を出し、生成されたコードを改善する能力が求められます。原理原則は、そのための絶対的な評価基準を与えてくれます。
- 未知の問題に立ち向かう「応用力」を養う
定型的な作業はAIに任せ、エンジニアはより複雑で前例のない問題解決に挑むことになります。そこでは、既存の知識を組み合わせ、新たな解決策を生み出す「応用力」が試されます。原理原則の理解は、思考の引き出しを増やし、多様なアプローチを可能にする知のOS(オペレーティングシステム)として機能します。
- ユーザーへの「品質」という約束を果たす
ソフトウェアは、ユーザーの課題を解決するためのものです。その価値は、単に機能が動くだけでなく、速さ、安定性、安全性といった「品質」によって支えられています。ソフトウェア工学の原理原則は、テスト、品質管理、保守性といった、ユーザーに真の価値を届けるための品質を担保する上で欠かせない羅針盤です。
では、この土台をどのように築いていけばよいのでしょうか。具体的な育成方法として、以下の3つが有効です。
- 古典的名著の輪読と写経: アルゴリズムや設計に関する古典的な名著をチームで輪読し、そこに書かれているコードを実際に自分の手で書き写す(写経する)時間を設けます。これにより、偉大な先人たちの思考を追体験し、そのエッセンスを深く理解することができます。
- AI生成コードとの比較レビュー会: ある課題に対し、まず研修者が自らコードを書き、同時並行でAIにもコードを生成させます。そして両者のコードを比較検討するレビュー会を行います。「なぜAIはこのデータ構造を選んだのか」「人間の書いたコードの方が優れている点はどこか」といった議論を通じて、原理原則に基づいた評価能力を実践的に養います。
- 既存システムの設計意図を読み解く: 業務で使われている既存のシステムや有名なオープンソースソフトウェアを取り上げ、「なぜこのような設計になっているのか」を説明させます。隠された設計意図やトレードオフを読み解く訓練は、表面的な知識を、実践で使える深い理解へと昇華させます。
4.対話でスキルを伝承する「現代の徒弟制度」の復活
次に提案したいのが、経験豊富なエンジニアが指導者となり、初心者と徹底的に対話する「現代の徒弟制度」です。 これは、一方的に知識を教えるだけの研修ではありません。初心者がAIを使って書いたコードを、指導者がレビューし、徹底的に「ダメ出し」をします。そして、最も重要なのは、「なぜダメなのか」その理由を、原理原則に紐付けて丁寧に説明することです。
「このコードは、計算量が大きいからパフォーマンスに問題が出る」
「その設計では、将来仕様変更があったときに修正範囲が広くなってしまう」
このような対話を通じて、初心者は自身の判断軸のズレを修正し、良いコードと悪いコードを見分ける「目」を養っていきます。
さらに、このプロセスはエンジニアにとって不可欠な「傾聴力」や「対話力」を磨くことにも繋がります。コードの機能や文法はAIに任せられるようになる一方で、人間が人間を相手にして「何をさせるか」「どうさせるか」をユーザーから深く聞き取り、感じ取る能力はますます重要になります。指導者との対話は、まさにそのための絶好の訓練となるのです。
そして、この学びは初心者だけのものではありません。技術の進化とともに、原理原則の解釈や応用方法は常に変化し続けています。だからこそ、指導者となる経験豊富なベテランエンジニアであっても、謙虚に学び続ける姿勢が重要です。
長年の経験によって培われたドメイン知識や課題解決の知見と、普遍的な原理原則、そしてAIという最新のツール。これらを掛け合わせることができるエンジニアこそが、これからの時代をリードし、そのスキルを次世代に伝承していくことができるのです。
5.組織の壁を越えるコミュニティ活動への参加
社内での学習や経験の伝承に加え、組織の壁を越えた外部コミュニティへの参加は、エンジニアの成長を加速させる上で非常に効果的です。
一つの組織に長くいると、どうしても技術選定や開発文化が固定化し、視野が狭くなりがちです。コミュニティ活動は、その「内向き」になりがちな視点を強制的に外に向け、新たな刺激を得る絶好の機会となります。
- 視野の拡大と相対化:
自社では使われていない技術や、全く異なる文化を持つ開発チームのやり方に触れることで、自社の常識を客観的に見つめ直すことができます。「なぜあの会社では、あの技術が採用されているのか」を考えることは、技術選定の目を養う訓練になります。
- 多様なフィードバック:
社内の人間関係にとらわれない、多様なバックグラウンドを持つエンジニアから、自分の考えやコードに対して率直なフィードバックを得られます。これは、技術的な視野を広げる上で非常に貴重な経験です。
- アウトプットによる学びの深化:
勉強会で登壇したり、技術ブログを書いたり、オープンソースに貢献したりすることは、自分の知識を体系的に整理し、他者に分かりやすく説明する訓練です。このアウトプットのプロセスこそが、自身の理解を最も深めることに繋がります。
AI時代のエンジニアは、特定の組織の論理だけで完結するのではなく、より広い技術の世界で自らの価値を証明していく必要があります。コミュニティ活動は、そのためのネットワークを築き、自身の市場価値を高める上でも不可欠な要素と言えるでしょう。
最後に
AIの登場は、エンジニアから仕事を奪うものではありません。むしろ、エンジニアを本質的でない「知的力仕事」から解放し、より創造的で、より価値のある仕事に集中させてくれる絶好の機会なのです。その機会を最大限に活かすためにも、揺るぎない土台となる「原理原則」の学びを深めていくべきではないでしょうか。
本記事で提案した、
- モダンIT環境への適応
- テクノロジーを前提としたビジネス構想力の獲得
- 原理原則の徹底学習
- 対話によるスキル伝承
- 組織の壁を越えるコミュニティ活動
これらの育成戦略を総合的に実践することによって、AIがもたらす格差を乗り越え、全てのエンジニアがその恩恵を受けられるようになります。
個々の成長が組織の力となり、さらには業界全体の技術力を底上げしていく。そうして、変化の激しい時代においても真に価値を創出し続けることができるエンジニアを育成できると、私は確信しています。
まもなく締め切り!
次期・ITソリューション塾・第50期(2025年10月8日[水]開講)の募集を始めました。
2008年に開講したITソリューション塾は、18年目を迎えました。その間、4000名を超える皆さんがこの塾で学び、学んだことを活かして、いまや第一線で活躍されています。
次期は、50期の節目でもあり、内容を大幅に見直し、皆さんのビジネスやキャリアを見通すための確かな材料を提供したいと思っています。
次のような皆さんには、お役に立つはずです。
・SI事業者/ITベンダー企業にお勤めの皆さん
・ユーザー企業でIT活用やデジタル戦略に関わる皆さん
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・デジタル人材/DX人材の育成に関わられる皆さん
詳しくはこちらをご覧下さい。
※神社の杜のワーキング・プレイス 8MATO(やまと)会員の皆さんは、参加費が無料となります。申し込みに際しましては、その旨、通信欄にご記入ください。
期間:2025年10月8日(水)~最終回12月17日(水) 全10回+特別補講
時間:毎週 水曜日18:30~20:30の2時間
方法:オンライン(Zoom)
費用:90,000円(税込み 99,000円)
内容:
- デジタルがもたらす社会の変化とDXの本質
- ITの前提となるクラウド・ネイティブ
- ビジネス基盤となったIoT
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- 変化に俊敏に対処するための開発と運用
- 【特別講師】クラウド/DevOpsの実践
- 【特別講師】アジャイルの実践とアジャイルワーク
- 【特別講師】経営のためのセキュリティの基礎と本質
- 総括・これからのITビジネス戦略
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*「すぐに参加を確定できないが、参加の意向はある」という方は、まずはメールでご一報ください。事前に参加枠を確保します。決定致しましたらお知らせください。
8月8日!新著・「システムインテグレーション革命」出版!
AI前提の世の中になろうとしている今、SIビジネスもまたAI前提に舵を切らなくてはなりません。しかし、どこに向かって、どのように舵を切ればいいのでしょうか。
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神社の杜のワーキング・プレイス 8MATO
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